文字という「手段」

 一枚の絵があるとしよう。どんな絵でもいいが、できるだけ詳細な筆致の絵がいい。
 その絵を文字だけでどれほど表現できるか。千の言葉を尽くそうと、万の言葉を駆使しようと、実際に絵を目にするという手段の前で文字は映像の力に負けてしまう。

 小説を書く上で感じることは、文字と映像では土俵が違うという当たり前なことだ。絵に感動するために必要な時間は数秒でいい。ありったけの情熱をなみなみと注ぎ込んだキャンバスを公開すれば、それだけで共感を得ることはできる。
 だが、小説は違う。小説を読むのには絵を楽しむのに比べて多大な時間を必要とするからだ。最初の一文のみで感動する小説というのは極めてごくごく一部、本当に一握りの作品だけだろう。
 たくさんの文字を費やして小説は構成されている。一文字一文字が絵の一色一色であるのと同じように。だが小説は文字の羅列でしかない。文章を映像化し、頭の中で物語を想像させるのは読み手の想像力と書き手の力量に依存する。与えられた情報に対して直感的に感動できる絵と比べ、小説は想像と言う認識のプロセスを挟む。経るプロセスが多ければ多いほど不純物が混じる可能性は高まるのは当然で、つまり書きたかった内容が全て読み手に伝わるとは限らない。

 ならば文字は絵に劣るのか。私はそうは思わない。
 学生の頃に読んだある小説の感動は今でも新鮮なままで心の中に残っているし、映画や過去の偉人が語った名言もまた私の心に焼き付いている。

 絵描きが色の全てを把握するように、小説家は自らが綴る文字を把握しなければならない。五感が得た情報を文字と言う記号に変換するのは容易なことではない。だが、それほど難しくもないのかもしれない。表現は自由であり、表現に正解などないのだから。だからこそ、自らの表現に書き手は責任を持たなければならず、誇りも持つべきなのだと、私は思う。